忘れられない絵がある。
その絵はアールデコの館の円形の部屋の中央に展示されていた。ちょっと不思議な展示方法だ。カーテンの前に浮かび上がるように吊るされており、タブローの中のトロンプルイユのカーテンと相俟って、幾重もの闇から浮かび上がるようだった。
異様な光景だった。金色に煌めく宴。突然現れた手が空中に赤い文字を描く。息を呑み、身をよじる人々…
私は心臓を掴まれるような恐怖を感じた。まるでこの身が宴席に引きずり込まれ、意味の分からない、だが確実に致命的な宣告を目の当たりにするような感覚に凍りついた。同時に、このデーモニッシュな瞬間に魅了され、この絵の前からしばらく動くことができなかった。
ピエトロ・ダンディーニ『ベルシャザルの饗宴』。東京都庭園美術館で開催されたプーシキン美術館所蔵の「イタリア・バロック絵画展」で観た絵だ。もう20年前の事なのに、鮮烈に記憶に残っている。それがベルシャザルという名との出会いだった。
様々な画家がベルシャザルを描いているが、取り上げる場面は皆一様に、謎めいた手の出現と、畏れに支配された人々の姿だ。このピトレスクな瞬間を、では音楽の筆はどのように切り取るのか?
シューマン『ベルザツァール』は、ハイネの詩による歌曲。僅か5分程のバラードだ。不穏な熱狂にうねる饗宴は、傲慢な王の呼ばわる一言を境に静まり返り、一気にカタストロフィーへと転落する。ダニエルは登場せず、王は訳も分からぬうちに殺される。
まるで卓越した咄家の怪談話を聴くような、知られざる名曲だ。
さて、ヘンデルの話は敢えてせずに措こう。謎の手の出現を縦糸に、バビロン捕囚からの解放や子を案ずる母の想いを横糸に、ヘンデルがどのような壮大な絵巻物を織り上げるのか…それは聴いてのお楽しみ。
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